鳥取県米子市の心療内科・精神科・内科

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連載記事


ストレス社会を生きる(日本海新聞)

第12回 子育てを考える(7)~人事を尽くしすぎて天命を見失う~

2002年6月4日

 万物は生まれ、成長し、老い、そして死んでいきます。無数の人間たちのこれまでの営みが、土に還ったように、これからもそれが繰り返されます。無論、地球自体ですら無限のものではありません。

​ 人間はふわふわとした羊水中の壁のない無感覚な世界から押し出されたその瞬間から、他者やさまざまな現象と出合い、そのような外部との接触によって生じる自己感覚を目安に生きていきます。自らのバランスに必要なものは欲求として感じられ、あるものを取り入れたり、避けたりします。食べ物が必要なら食欲が、休養が必要ならば「疲れ」などの感覚が生じます。そのようにして個体はバランスを維持します。そのような個々の集合体である外界もまた常に変化を抱えながら平衡状態を保っています。

《「意味」という病》

 そのような世界で生きている私たちに必要なことは何なのでしょうか。どんな「チカラ」なのでしょうか。現在の私たちはさまざまなハイテクを駆使できるパワーを得ました。そしてバランスの良い生き方になったのかというと必ずしもそうではありません。私たちは「意味」に翻弄されるようになったのです。さまざまな「意味」を自分や他者に押しつけ、「こうでなければならない」と無理をしています。そのために自然物としてのバランスをとる上で必要な「自己感覚」を無視しているのです。

​ そのような結果、たとえば拒食症のように、たくさんの食べ物に囲まれながらの餓死のようなことすらありうるのです。このような社会と、本当に食べ物がなくて餓死することがあるような状況と、果たしてどちらが不幸なのでしょうか。「意味」というものに追い詰められ、実存を窒息させるという病に私たちは陥っているのです。そして子育てを通して、それを次世代に垂れ流しているのです。

《「意味」という病》

 子どもはさまざまな試行錯誤を通して、等身大の自分が心地よく生きていく生き方を模索していきます。しかし実際は大人による無思慮な「意味」の押しつけが、あまりにも子どもたち呪縛しています。そのようにして高まった不安のために、子どもたちは成功や失敗というものに敏感になってしまい、必要な試行錯誤ができなくなっているのです。

​ 勝手な「意味」で子どもを脅迫して、あとは「頑張れ」の繰り返し…という子育てでは、「反乱」が起こらない方が不思議です。

《奴隷的生活の見直しを》

 子どもが自分の感覚で自由に試行錯誤する気になる環境を与える余裕が私たちにどれだけあるでしょう。現代人の多くは、例えばカネという「意味」に縛られたエコノミックアニマルであったりするからです。

 「人事を尽くして天命を待つ」という言葉があります。しかし実際はさまざまな「意味」からくる不安によって「人事を尽くしすぎて天命を見失っている」のが今の私たちなのです。前向きに「天命に下駄をあずける」という気になるには、自分の存在についての安心感が不可欠です。そのような安心感が、自由、すなわち自分に由って生きるという状態の支えになるのです。

​ 私たちが子どもの声をきけるようになるということは、これまで「都合上」無視してきた自分の声をきいていくことに他なりません。私たち大人は、どうでもいい「意味」の奴隷になっていないか、子どもたちを奴隷にしていないか、見直してみる必要があるでしょう。

第11回 子育てを考える(6)~自己肯定感の形成~

2002年5月13日

 人間の精神の安定にとって欠かせないのは自分を肯定する感覚です。育児や教育において最も大切なことはこの自己肯定感の基礎を形成することです。

 さまざまなことを感じつつ、自分が試行錯誤していくプロセスを肯定的な目で受け入れることは、同時にさまざまな背景をもった他者や、人生で起こり得るさまざまな事象に対処していく基礎となります。これなくしては幸福も、他者との実りあるコミュニケーションも困難です。

​ このような大切な自己肯定感について、すこし考えてみたいと思います

《自己を肯定する方法》

 自己肯定の方法には大きく分けて二つあると筆者は考えています。この2つのうち現在最もポピュラーな方法は、さまざまな「達成課題」を設定して、それを達成していく中で自己肯定していく方法です。これを「アッパー系」と呼びましょう。もう一つはさまざまな既成の価値観から自分を解放していき、自分に由って生きるという自己肯定の手法です。まあこちらの方は自己肯定という言葉より「悟り」という方が正確でしょう。誰に肯定されようが否定されようが万物は在る。自分も在る。その価値を云々したり、自分の範疇でないことを悩んでも仕方がないというものです。禅に通じるものですから「わびさび系」と呼びましょう。

​ もっともどんな人でもどちらか一方ということはなく、両者がある程度の比率で混ざりあっています。しかし現代は「アッパー系」に偏りがちであることは否めません。そのためにさまざまな弊害が生じてきます。

《「アッパー系」の弊害》

 さまざまな課題の達成で自己肯定を行うという手法の欠点は手段が目的化してしまいやすいことです。すなわち幸福のための「手段」にすぎない「達成課題」に対し、あたかもそれ自体が目的のように頑張ってしまうためにかえって不幸な状態に陥ってしまうのです。

 「学歴」「地位」「経済的達成」のために、今ここにおける幸福を考えない、あるいは今ここの不幸を感じないようにしているうちに「気がついたらずっと幸福じゃなかった」ということになりかねないわけです。

 さらにアッパー系の自己肯定に偏っていると、「課題達成」にとって都合の悪いものを受け入れ難くなります。それは自分の健康かもしれませんし、自分の子どもの性質かもしれません。あるいはさまざまなルールかもしれません。いずれにしても達成の邪魔となる自らの病気に怒り、思い通りにできない自分を蔑み、易々と達成してしまう他者を妬み、「一発逆転」を狙って悶々としているという精神状態は健康とも幸福ともかけ離れたものです。

 また一見順調そうにみえても「これでいい」という平安がいつまでも訪れぬことや、いつも自分を抑えてきたような不幸な感覚に苛立っている人は多く、それゆえにいじめやDVなど、他者の存在を勝手に否定するような言動が巷に溢れているのです。

​ この時代はもはや「○○をやっていれば大丈夫」などということは言えなくなってきています。ということは、育児に際して「条件付承認」のようなことばかりやっていてはやはりいけないでしょう。その子どもが何に興味を示そうと「そんな無駄なことはいいから、勉強しなさい」なんていうのは少なくとも子どもの役には立ちません。そのような子は勉強ができたらできたで不自由ですし、できないならできないで「どうせ自分なんか」という低い自己肯定を抱えて生きることになってしまうのです。

第10回 子育てを考える(5)~「良い子」たちの苦しみ

2002年4月16日

 前回、オウムに集った「良い子」たちについて触れました。今回はもう少しその点について考えたいと思います。

​ 「支配ム被支配」「依存ム被依存」という人間関係を自明なこととして受け入れ、他者や「常識」に支配される形で「良い子」をやっていたのが彼らです。そのような「良い子」は「落ちこぼれ恐怖」のようなものであり、自分が無価値になったり、見捨てられてしまう不安と常に同居しています。その不安は彼らが有名大学に入ろうが、医師や弁護士になろうが解消されず、延々と続くのです。

《「良い子」とカルト》

 自分をコントロールして「良い子」になり、それによって人に認められ安心するというスタイルを彼らが疑わない限り、自己コントロールによる達成や承認する人物の「強度」を上げていくしか「これでいい」という安心を手に入れる方法はありません。修行による神秘体験や超能力の獲得、さらに教祖(神のごとき絶対の存在)という「装置」が彼らに必要であったのはこのような理由からであると考えられます。

 筆者の周囲にもカルトに入信した人は結構おりますが、真っ白でないことには耐えられないあまりにもピュアな人がほとんどです。まるでカイコが繭の中で一生を過ごそうと必死になっているようで、そうさせてあげたい気もするけど、そりゃ無理だろう…という印象をもつ人たちでした。しかし彼らの考える世間(家族やその価値観の延長上の世界)をカルトの中の価値観と共同体に置き換えたとしても、やはり「これでいい」という安心は得られないのです。

​ そんな彼らにカルトからの脱会を勧めたとしても、すんなりとは応じません。彼らは「間違って」カルトに入ったのではないのです。こちらの世界が苦しいからあちらにいったということです。そして彼らが容易にカルトにはまった理由は私たちの社会がカルト的であるからです。民主主義といっても名ばかりであり、実質はカルトと同様に「ごちゃごちゃ余計なことを考えずに言うことをきけ」という支配に満ちているのです。そのような社会で言うことを聞いていたのだけれどちっとも幸せにならない人々が「もっと強い自分」や「絶対の親」を求めてカルトに入ったにすぎないのです。

《茶髪はカルトを遠ざける?》

 では一方で、絶対にオウムに入りそうもない若者というのも多数いるわけです。彼らはどういうタイプかというと、一方的な押しつけに対して「ウザイ」と距離を取ることができ、「絶対」なんてものをハナから信じていない若者たちです。「○○でなくてはならない」と力む他者に対して「勝手にやれば」という態度をとれる彼らに良い印象をもたない人も多いかもしれません。しかし「良い子」ではなく、他者の価値観を相対化している彼らは、決して他者に支配されませんし、自分を縛るような「重たい」価値観をもとうとしません。茶髪をはじめとする彼らのファッションは自分を身軽にする効果もあるでしょう。少なくともそのようなファッションをする若者たちに面と向かって「そのような欧米コンプレックスは…」と見当外れなことをいう「ウザイ」大人や若オヤジは話しかけてはこないでしょう。

《価値観の異なる他者とつきあう》

 これだけ多様な価値観が存在する現在の状況で、自分や他者の価値観を相対化して考えないスタイルでは大きな苦しみを伴います。「挙国一致」で盛り上がることのできた時代とは異なり、確からしい価値観に必死で合わせても、それが思うような承認や人との結び付きにつながらないのです。有名大学への入学が他者の承認や人間関係を保証してくれるわけではありません。有名企業であろうが、フリーターであろうが、人とのつながりは個人のコミュニケーション能力にかかっています。閉塞感少なく、価値観の異なる他者と共存するスキルこそ今後の教育に欠かせない達成課題であるといえます。

​ そのような他者とのコミュニケーション能力について、次回もう少し考えたいと思います。

第9回 子育てを考える(4)~パワーとコントロールの社会~

2002年4月2日

 子育てとは文字どおり次世代を育むものです。どのような方針をもってこれを行っていくのかということは、まさに国民的議論に値することです。一昔前までならば間違いなく「お国のためになる人材」をつくることでした。すなわち良い軍人(企業戦士)やその良き妻(良妻賢母)を作るための教育です。それに国民がみな同意していたのです。

​ また教育はその社会状況をそのまま反映します。その社会に生きる人々が何を「善きもの」「幸福なこと」として生活しているかということが教育方針に如実に表現されるのです。それでは今の私たちの社会とはどのような状況なのでしょうか。

《「支配-被支配」の社会》

 20世紀は「パワー」の時代でした。みな「パワー信仰」という宗教に入信していたようなものです。パワーさえあれば外的なものも内的なものも何でもコントロールできる(その結果安心が得られる)という行動原理です。人に認められる「正当性」はそのようなパワーに賦与されるという発想です。

 そのような考え方はわたしたちの社会の隅々まで浸透しています。無論日本だけではありません。最近は他人事でなくなってきた「テロ」という行為の頻発も「パワー信仰」という行動原理に依っています。パワーが劣るものの主張は国際的にあまりにも力をもたないために、弱者はテロという形で「パワー」を示すことに躍起になり、いつしかテロという手段自体が目的化していきます。イスラエルもパレスチナも、ブッシュもビンラディンも、「パワー信仰」という点では共通しているのです。

​ 日本でも「パワー信仰」が生む「支配-被支配」「依存-被依存」という人間関係をベースとする問題が噴出しています。不登校も学級崩壊もそうですし、数十万人にのぼるという「社会的ひきこもり」も同じものをベースにしています。ドメスティックバイオレンス、児童虐待、家庭内暴力、イジメなどもみな同様です。

《「良い子」の危うさ》

 象徴的なのがオウムによる一連の事件でしょう。オウムは「支配-被支配」という構造を徹底した社会を作りました。「神のごとき存在」の承認を必要とする多数の若者の存在が、髭づらのオジサンを「教祖」に祭り上げたのです。

 オウムに集った若者たちの多くは「こういう子どもを持ちたい」とほとんどの親が思うような「良い子」たちでした。東大や有名企業に入ったり、医師や弁護士になるなどしていた若者たちです。そのようなさまざまな「達成」はしかし「これでいい」という安心感を彼らにもたらしませんでした。「善きこと」「やるべきこと」に日々追われている彼らが「神のごとき存在」を欲し、それによる究極の承認を求めることで真の安寧を手に入れようとしても不思議ではありません。

 「何も考えずに、ただやるべきことをやれる自分でありたい」という発想は、支配されている者が自分を支配(コントロール)するために行うものです。これを私たちは自分自身や子どもに要求しているのです。これを私たちより少し上手にできたのがオウムの若者たちであったのです。

 自分を「善きもの」に保とうと汲々とする「良い子」たちがサリンをまいてしまうという皮肉な現象を私たちはしっかりと受け止めねばなりません。教祖を死刑にしたら安心できるものではないのです。私たちの子育てや教育に対する考え方、ひいては生き方全般に関わる問題と認識する必要があるでしょう。

​ 次回以降、さらにこの点を考えていきたいと思います。

第8回 子育てを考える(3)~児童虐待(下)~

2002年3月5日

 児童虐待とは、大人自身が十分な援助や承認を得ることができず、自己肯定に不足をきたした状態で子どもに接することから生じてきます。

​ そんな切羽詰まっている人たちの中には他者に援助を求めることも受け取ることも非常に苦手な人々が多数います。自分が援助されることがスティグマとなったり罪悪感を刺激されたりしてしまい、援助の申し出に攻撃的となったり、固く緊張してしまったりすることでそれを受け取れず、結果として余裕も生まれないのです。

《虐待の世代間連鎖》

 子どもは自分がどのような存在であるかという知識や認識をもって生まれてくるわけではありません。周囲とのコミュニケーションの中で世界における自分の位置づけを形成していきます。虐待されて育つということは、余裕のない周囲が自分の振舞いに苛立ったり、無視をしたりする態度に日常的に触れるということです。そのような子どもが「自分の存在が世界に受け入れられている」とは思えません。逆に「自分は周囲にとって基本的に迷惑な存在である」という認知を形成します。そうなると他者に対して、オドオドしたり、他者の機嫌に敏感になりすぎたり、虚勢を張ったり、攻撃的であったりするようになります。当然他者に甘えたり助けてもらうことは苦手になります。無論、子どもの頃の周囲との関係のみが人の安心感を形成するわけではありません。その後の人生の中でも日々安心を貯めていくことが十分可能です。しかし他者からの手助けを得るのが苦手なままその人が親になったとき、育児という絶え間ない作業の中で容易に切羽詰まっていくのです。

​ そのような理由から虐待が目立つ親自身が元被虐待児であることもしばしばです。それがいわゆる「虐待の世代間連鎖」なのです。

《虐待を生みにくい育児システムの構築を》

 虐待は余裕のない私たち大人の問題なのですが、全ての大人が余裕をもつのを待っていられませんし、そのような手法もありません。少なくとも現実的なのは核家族に依存した現在の育児システムの見直しです。今のように地域や多世代からの援助も期待できない状況では、親の危うさがダイレクトに子どもに影響してしまいます。そのような育児システムでは虐待を大量生産するようなものです。少なくとも一人の子どもに複数の大人が継続的に関わるようなシステム作りが急務です。とりあえず「保育」の拡充や位置づけの変革が必要でしょう。

​ とにかく私たち社会の育児に対する意識の改革が急がれます。「母親に任せておけばいいし、それができて当然である」という非現実的な男社会の甘えた考えは即座に捨て去るべきです。常に要求してくる子どもに対して力の乱用やネグレクトをせずに一緒にいられるとでも思っているのでしょうか。育児に親自身が追い詰められず、子どもに対する力の乱用を減らす(虐待を減らす)ためには、配偶者や周囲、社会が援助せねばならないのは当然過ぎることです。母親に全て押しつけるような甘えた考えの上に「俺も甘えさせろ」などという男が多すぎます。「そんな配偶者ならいない方がまし」ということが社会の常識とならないことには、現在の超少子化は改善しないでしょう。

第7回 子育てを考える(2)~児童虐待(中)~

2002年2月20日

 私たちは子どもに自己愛を投影することで子どもをかわいいと感じます。すなわち「自分を肯定できる精神状態のときに子どもがかわいい」のです。その逆に自分を否定し追い詰めているとき、子どもへの攻撃性が高まります。

​ 虐待問題を考える場合、さまざまなレベルでの対策が考えられます。今回は身近な育児環境について考えたいと思います。子どもを「要求ばかりしてくる悪魔」のように思わなくてすむにはどのような工夫が必要なのでしょうか。

《自己肯定しにくい「システム」》

 子どもからは24時間絶え間ない要求が発せられます。育児とはこれに対して切れ目なく世話をしていく作業です。このようなことをたった一人の人間で行うことは基本的に不可能です。こんなことは当たり前のことで、少し考えるか、少しでも育児に関わればわかりそうなものです。しかし「一人で背負うのが当然」のようにうっかりすると感じてしまうような雰囲気が日本にはあるのです。これは脆弱なオジサン達の甘えからくる「母親幻想」が空気のように社会全体に充満しているためと考えられます。

​ 考えてみて欲しいのですが、戦後の教育では女性もまた“社会的達成”の意義を身につけ、男性同様に受験や仕事などにも重きを置いて頑張ってきています。すなわち社会的な達成は女性が自己肯定する一つの大切な手段となっているのです。それにもかかわらず一定年齢に達したとたん「母性」を説かれ、そのついでに「ボクの世話も」という具合にソチラ(夫)の方でも母性を求められるわけです。このようなキャリアから母性へいきなり自己肯定する手段を器用に切り替えられる人ばかりではありません。どちらか片方を選んだ場合、何ともいえぬ自己不全感に悩まされたりします。またどちらも捨てきれず両方満たそうとすれば、いつも何かに追われているような生活を強いられることになります。

《自己肯定に関わる作業とのバランス》

 核家族化が進み、育児システムとしての地域共同体が綻びをみせる昨今では、同居の上の世代や近隣の援助にはなかなか期待できません。必然的にパートナーや近くの親、友人、そして保育所や公的機関などに援助を求めるしかありませんし、そうせねば成り立ちません。

 しかしそんな当然のことが理解されていません。女性が自己を肯定しながら育児ができるというシステムを真剣に考えることがあまりにも行われていません。「自己肯定」という育児をする力の源泉を確保しながら子どもに関わることの大切さはもっと強調されるべきでしょう。当然どのような時間や労力の配分を行うかというバランスは一人一人が異なったものでしょう。男性だろうが女性だろうが、仕事や趣味、家族や友人との人間関係などを通して自己を肯定しながら子どもに関わる必要があります。保育園などはそのバランスを取っていく上で多くの人にとって不可欠なものです。

 しかし「母親が原則的には一人で養育するもの(やることもできることも当然)」という前提で必然的に生じてくる「無理だ」「苦しい」「何とかならないか」という女性の感覚に対し、オジサン社会は無益な説教を繰り返します。

​ 「保育園なんぞに入れてはかわいそう」「保育料分お前が稼げるのか」などと周囲から言われ、マンションの一室に子どもと監禁されている母親たちのメンタルヘルスが危ぶまれます。母親が子どもと一緒にいればいいというものではありません。大切なのはどのような精神状態で子どもと一緒の時間を過ごせるかということです。母親に対する説教の多くは無益なだけでなく、自己肯定を奪うという点で「虐待を強制しているに等しい行為」といっても過言ではありません。そんな説教の前に必要なのは「大変だね。手伝うよ」という周囲の姿勢であり、これが最も身近な<虐待防止活動>なのです。

第6回 子育てを考える(1)~児童虐待(上)~

2002年2月5日

 虐待関連の痛ましい事件が後を絶ちません。虐待防止が叫ばれ、全国各地さまざまなレベルでの動きが報じられています。しかし虐待とはどういうことなのか、何ゆえに起こるのか、対策にはどのようなものがあるのかといったことについて、私たちはほとんど何も共有していません。さすがに最近は虐待について「一部の異常な人が行うもの」という極端に誤った認識は見直されつつあります。しかし虐待というものがどれだけ裾野が広い問題から生じているのか、虐待防止活動とは何か、虐待を生じにくいシステム作りは考案できるのかといったリアルな処方箋はほとんど提案されていないのが現状です。

​ 虐待とは育児システムのみならず家族というものに対する私たちの認識、ひいては生き方全般までをも視野に入れながら語らねばならない問題であることを強調したいと思います。

《大人はみな子どもを虐待する》

 虐待とは特殊な人がするものではありません。人類を「虐待する人」「「しない人」に分けることはできません。要するに全ての大人は例外なく子どもを虐待しています。本質の違いはなく程度の違いがあるだけなのです。同じ人物でも昨年と今年、昨日と今日で“虐待指数”が上下しています。私たちが置かれている状況により刻々と“指数”は変化しているのです。

《虐待とは何か》

 虐待にあたる英語はchild abuse & neglectです。アビューズ(abuse)とは乱用という意味です。つまり大人という強者がその力を子どもに乱用してしまうことをいいます。このような現象が起こりやすいのは、大人側の余裕が失われているときです。大人自身が不自由で自分が追い詰められているような時、「要求の塊」のような子どもという存在に対し、それを自然現象のように受け入れることは到底出来ません。子どもに理不尽な“責任”を求めてしまいます。「なぜミルクを飲まないんだ」「なぜ泣きやまないんだ」などといって乳児を殴ったり、無視(neglect)したりしてしまうのです。

​ 力のある者が一方的に弱者の在り方を押しつけ、それに反すると暴力を奮うという現象は、社会のあらゆるレベルで生じています。それは強者から弱者へと連鎖しており、「男から女へ」などを経由して最終的に最も力の弱い“子ども”に被害が及んでいるといえるのです。

《虐待は親のSOS》

 親は自分の自己愛を子どもに投影しています。子どもがかわいいのは親自身が自分という存在を大事にできているからです。自分が全く大切にされない、されたこともないという状況で生きている人が、子どもを生んだから単純に子どもがかわいいと思えるわけではありません。虐待に対する有効な援助とは、まず切羽詰まっている大人の負担を減らし、自分をケアできる余裕をもてるようにしていくことにほかなりません。虐待の被害を受けている子どもの悲鳴は、同時に「親のSOS」でもあります。虐待問題とは私たち一人一人のメンタルヘルスと深く関わっているのです。

第5回 ドメスティックバイオレンス(4)~二次的暴力の根絶を~

2001年12月18日

 女性がDVから逃れるためには周囲の理解と協力が不可欠です。逆に言えばDVという問題の解決には、周囲の理解が大きな役割を果たします。自己尊厳を否定される体験を繰り返した女性たちは、自分の力が信じられなくなっており、救いのない絶望の中にいて、解決策を見いだせないままでいるからです。

《夫婦喧嘩とは別物》

 DVを単なる『夫婦げんか』というふうに捉えその被害者の訴えを聞かない姿勢がいまだに根強く存在しますが、これはまったくの誤りです。

 DVやイジメのように、相手の自己尊厳の否定を繰り返すことで、他者をコントロールしようとする一方的な行為は“けんか”のような対等かつ双方向のコミュニケーションとはまるで別物です。

​ これまでの男性優位の社会状況は、筋力優位を背景にした身体的暴力だけでなく、経済的、社会的、精神的など、さまざまな形での一方的な暴力を可能にしてきました。このような状況を背景にしてDVにはさまざまな形があるわけですが、多くの場合、被害女性が死ぬほどの重傷を負うか、少なくとも骨折くらいしないと問題視されません。「男を怒らせた女性が悪い」といわんばかりの周囲の態度が被害女性をさらに追い詰めているのです。

《Aさんの事例》

 あるAという女性は「お前のような女は人間として失格だ」というような否定的言葉を夫が不機嫌になるたびに浴びせられ、そのときにみせる夫の表情や物を投げたり壁を殴ったりする威嚇行為に脅えていました。自分の実家に帰ることも友人と会うことについても「ロクな家事もしないで遊んでばかり」などと夫は憎々しげにつぶやき不機嫌になります。このような夫への恐れからどんどん自分自身の生活の幅を狭めていかざるを得ませんでした。しかしある日、夫のあまりにも一方的な非難に対し、つい反論を口にしたAさんにいきなり夫はつかみかかり首を絞めました。何とかその場を逃れたもののもはや恐怖のためにとても夫とは暮らせません。子どもと共に家を出て実家に身を寄せました。

 しかし実家において事情を説明しても「片親では子どもが大変だ」「お前のわがまま」というようなことを言われ居場所がない状況です。

​ 離婚調停を申し立てますが「離婚に足る理由が見当たらない」「きちんと働いている夫のどこが不満なのか」「(あからさまな風俗店への出入りや浮気について)奥さんが嫌そうにしているからじゃありませんか」など調停委員に言われます。首を絞められたことについてすら「今こうして生きているのだからご主人は手加減したんですよ」と大笑いしながら言われたのです。第三者である調停委員によるこのような扱いは夫の暴力以上に彼女を傷つけました。しばらくは呆然として怒りもでず、自分がこの世に存在していてはいけないような存在に思えたといいます。

《解決に向けて》

 しかしこのような例は筆者が知っているだけでもキリがないほどあるのです。男性が「きちんと働いていている」というだけで、女性への暴力までが免責される今の状況はあきらかに間違っています。暴力を奮う男性というのは「男らしさ」というものにこだわり、周囲の目に自分がどう映るかということにびくびくしている脆弱な人です。あからさまな虚勢を張っている“チンピラ風”男性もいるにはいますがそれは一部であり、暴力夫の大半は「外面がとてもいい」男性たちなのです。

 人は自分を大切にできないような状況に長く自分を置いてはいけません。あなた方の娘や友人がDV被害にあっているとき、オトコ社会の屁理屈ではなく、普通に大切にしてあげてください。まして調停委員ならば「女性は耐えるべきだ」「あなたが男を怒らせたのではないか」といった態度で間違っても対応せず、彼女らの話に普通に耳を傾けていただきたいのです。

​ 周囲の人たちによる“二次的な暴力”を減らすことが、女性を“暴力の檻”から解放する第一歩なのです。

第4回 ドメスティックバイオレンス(3)~脆弱男の“赤ん坊返り”~

2001年12月4日

 先月30日、新潟の女性監禁事件の論告求刑がありました。当時小学4年生だった女性を下校途中に連れ去り、自宅2階の自室に長期に渡る監禁を行ったという事件です。9年2か月もの監禁が可能であった理由として、「学習された無力感」が背景にあると考えられています。監禁直後からの殴打や、ナイフ、高圧電流銃などを用いて繰り返し脅すという行為は、女性から「活路を見いだす意志」を奪い、加害者が外出中であっても「逃げられない」状態に陥らせました。これは前回触れたDV被害女性の「逃げられなくなるメカニズム」と同じものです。

 このような例からもわかるように、女性が逃げないのは「愛情」などとは全く関係がありません。単に行動の選択肢が著しく制限された心理的状況に追い込まれているに過ぎないのです。

​ それではどうして一部の男性はそのような暴力を奮ってしまうのでしょうか。

《オトコが奮う暴力の意味》

 現在のようなオトコ社会では、女性は腕力だけでなく、経済力や社会的な発言力などでも圧倒的に不利な状況下にあります。このようなクソッタレ社会において男性がよくいう言葉に「誰に食わせてもらっている」「お前が働いてどれだけ稼げるんだ」「三食昼寝つきのくせに文句をいうな」「お前のような考えは世間では通用しない」などなどがあります。そのような有利な立場を利用して相手を否定し、女性が自分自身を信じる力を奪い、その上で思い通りにコントロールしようとする行為がDVです。

 そのような男性の言動を要約すると「オレは偉い、オレは強い、オレは正しい」「ボクってかわいそう」「だから言うことを聞け」「そうしてくれれば何とかなる」などということになります。

 このように並べるとわかりやすいと思いますが、これらは男性が酔っ払ってよく口にする言葉です。そうです。彼らはシラフであったとしてもパートナーを前にすると酔っ払ってしまうのです。

​ 「酔い」とは「赤ん坊返り」です。赤ん坊とは欲求の塊です。相手の気持ちや状況を思いやるということはなく、ミルクや抱っこなどを満足するまで求めます。 しかしこれを大のおとなにされたらたまったものではありません。

《「酔い」が必要な男たち》

 少なくとも一定の世代以上の男性は幼少時代から「男の子なんだから」というのを枕詞にさまざまなことを刷り込まれており、大なり小なり「男らしさ」に脅迫されています。「男は泣いちゃいけない」「強くなくちゃいけない」「妻子を養わなくてはいけない」等などを背負い込んで無理をしています。その無理のバランスをとるためにさまざまなことを男性はしています。偉ぶったり自己憐憫に浸ったりしても嫌がらずに世話をしてくれる「ママ」の元に高い料金を払って男性が夜な夜な日参するのもこのような理由からです。

 しかし自分の配偶者に対しあからさまな暴力をふるう男性はやはり一部です。ここまでの「酔い」が必要となってしまうのは、その男性が「オトコとして生きることの条件(と彼らが思っていること)」に追い詰められ過ぎているからです。世間から「強くて」「偉くて」「正しくて」「能力がある」という形で見られていないと不安で仕方がないという脆弱性がDV男に共通してみられます。さらに自分の育った家庭でもDVがあって早くから暴力に曝露されていたとか、過保護に育てられたために「普通の扱い」を人からされると邪険に扱われているように受け取ってしまい不安になりやすいなど、それぞれに暴力を招きやすい要因を抱えています。

​ いずれにしても自己肯定感が脆弱で他人の目にびくびくしている余裕のない男性が、配偶者に対し「オレを強いと思え、エライと思え、誰よりも大事に思え、どんな用事よりオレを優先しろ」などといって“酔っ払う”ことでバランスをとろうとしているのがDVなのです。

第3回 ドメスティックバイオレンス(2)~隠ぺいされる暴力~

2001年11月20日

 DVがいかに私たちの社会において蔓延しているかということについて前回述べました。

​ これだけ頻度が高く深刻な問題であるDVが、つい最近まで問題視されることがなかったのはどうしてなのでしょうか。

《DV被害者への共感を妨げるもの》

 私たちは家庭というものを安全で安心なもの、他者からは不可侵なもの、何がなんでも守らなければならない最後の砦のようなものと考えてきました。そのため家庭の中で生じるあからさまな暴力ですら「愛情」といった言葉で隠ぺいされてきました。そしてどんなに愛情や尊重からほど遠いことが生じていようと、わずかな例外をひっぱりだして「愛情」を確認し、その家庭を維持することを自分にも他者にも求めてきたのです。

 そのため私たちは暴力を奮われている女性をみても「本人が逃げないのだから好きなんでしょ」などと納得していました。夫からの暴力被害のために離婚を考えている女性に対しても、「アルコールのせい」「あなたのここが至らなかったから」「もっと気を遣ってあげれば大丈夫」「家庭を壊すなんてわがまま。子どもがカワイソウ」などという忠告やら説教やらをしてしまっていたのです。

​ 暴力を奮われた被害者自身のショックや恐怖などに私たちがすぐに共感できないのは、私たちが「家庭」というものにもっている自分のイメージを壊されることを無意識に拒否しているからです。そのために家庭において愛情とは無縁の現象が生じている事実に目をそむけてきたのです。

《暴力を受け続ける女性とは》

 配偶者や恋人から暴力を受け続ける女性についてはさまざまな誤解があります。夫からの暴力に黙々と耐え続けている女性というと、能力が低く、弱々しく、一見して無力な女性を想像されるかもしれません。しかし事実は全く異なります。筆者が実際にあった女性たちは、その職業などからいっても教師、美容師、医師、弁護士、通訳、会社役員など、能力が低いとはとても思えない人たちが多くいました。そして元々「変わった人」でもなければ、マゾヒスト傾向があるわけでもありません。被害を受ける理由を女性側の個人病理に求めるのは大きな間違いであり、もし彼女らに共通の傾向があるとすれば、それは暴力被害によってもたらされた結果でしかないのです。それではなぜ彼女らは「逃げない」のでしょうか。

《学習された無力感》

 決して能力が低くない女性たちが何ゆえに耐え続けるのか。この疑問に対しては「学習性無力感(learned helplessness)」という現象が関わっています。これは次のような実験で示されます。

 ラットを手の中に抱き、そこから逃れようともがくラットの逃避行動が完全にやんでから解放するということを何回か繰り返します。その後に水槽にそのラットを入れると30分以内に全てが溺れ死んでしまうのです。その一部は全く泳ごうともせずそのまま水槽の底に沈んでしまうのだそうです。ところが通常のラットでは溺れるまでに60時間以上も泳ぎ続けるのです。これは実験ラットが当初の自発的な逃避行動を完全に力で抑え込まれるという体験により、困難に対する自分の無力を学習してしまったと考えられます。

 これと同様のことが被害女性にも生じています。その結果「別れたってやっていける」という当たり前の発想が持てなくなり、目先の男の機嫌ばかりを気にして緊張した生活を強いられることになるのです。これは夫の暴力だけでなく女性に忍耐を求める社会的雰囲気という「手の中」で彼女らが自らの「救いのなさ(helplessness)」を学習してしまったからに他なりません。

​ この問題に対する私たちの無知は暴力夫と同罪であるといっても過言ではないのです。

第2回 ドメスティックバイオレンス(1)~蔓延する女性への暴力~

2001年11月6日

《DV防止法の施行》

 「配偶者からの暴力の防止及び被害者の保護に関する法律(通称・DV防止法)」が今年10月ようやく施行されました。
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 事実婚を含む配偶者からの身体的暴力が対象で、被害者は裁判所に「保護命令」を申し立てることが可能となりました。これにより「6か月間の接近禁止」や「2週間の住居からの退去」を加害者に対し裁判所が命ずることができます。また都道府県に対し婦人相談所などに「配偶者暴力相談支援センター」としての機能を持たせることを定め、一般の人や医療関係者などに同センターや警察への通報を促しています。当然警察にも暴力の制止だけでなく、「被害の発生を防止するために必要な措置を講ずる」ことを求め、被害者の保護を徹底することを定めています。まだまだ不備な点が多いことは否めませんが、それは都道府県(婦人相談所など)や警察または裁判所などにおけるこの問題への理解と運用で補うしかありません。

《誰もが無関係ではないDV》

 「男女間における暴力」に関する総理府の調査結果が昨年発表されました。
 
 夫婦間において「命の危険を感じるくらいの暴行」経験した女性は20人に1人もありました。98年報告された東京都の実態報告では実に3人に1人の女性が夫や恋人などからの身体的暴力を経験しています。これは尋常な数字ではありません。実際、夫が妻を暴力で殺害するという事件は年に100件以上あり、殺人事件の女性被害者の約3割は夫(内縁関係も含む)による犯行です。離婚調停を申し立てる女性の約3分の1が、夫からの身体的暴力を理由にあげ、その数は年間1万件以上にのぼっています。
 
 しかもこれは「身体的暴力」に限った数字でしかないのです。暴力には身体的暴力以外にも以下のようにさまざまなものがあります。

1) 脅す、罵る、卑下する、無視する等の「精神的暴力」
2) 生活費を入れない、家計の状況を一切妻に教えない、借金を重ねるなどの「経済的暴力」
3) 手紙や電話、行動を監視し、友人や親兄弟などとの付き合いを禁じたり露骨な妨害を加えるといった「社会的暴力」
4) 性的行為の強要、避妊への非協力、あからさまな浮気の反復などの「性的暴力」

​ 以上のような暴力はなかなか表に出てきませんが、身体的暴力以上の頻度であることは確実でしょう。先の東京都の調査では2人に1人が精神的暴力を経験しています。

《暴力を許容する雰囲気の一掃を》

 従来までの男性中心の社会的状況は、筋力優位を背景にした身体的暴力だけでなく、さまざまな形での女性に対する暴力を可能にしてきました。そしてその一方的な暴力に女性が黙って耐えることを強要する雰囲気が今なお残っています。このような社会的雰囲気を一掃することが必要なことはいうまでもありませんが、そのためにはこの問題に関する理解を共有する必要があるでしょう。どのような男性が女性を殴るのか、何ゆえに女性は逃げられなくなるのか、そしてどのような影響を次世代に与えていくのか等について私たちは知っておかねばなりません。

​ DVのメカニズム、被害者女性、加害者男性の心理、解決への処方箋などについては次回以降述べさせていただきます。

第1回 解決の第一歩は直視~犯罪は社会の鏡~

2001年10月16日

 相変わらず「事件」や「問題」が多発しています。テロ、保険金殺人、凶悪な少年事件などの犯罪や事件の数々がメディアに登場しない日はありません。私たちの日々の生活においても、児童虐待、ドメスティックバイオレンス、家庭内暴力、ひきこもり、いじめや差別といった人間関係の問題や、アルコール・薬物、借金、ギャンブル、拒食や過食などのさまざまな嗜癖問題への対処は非常に身近なことになっています。しかしこれらの事件や問題をどのように捉え、どのように対処すべきかという説得力ある説明はほとんどみられません。

《メディアで繰り返される無意味な「儀式」》

 そのような事件発生直後の私たちには、得体の知れない不安と不快感が生じています。それらを解消するために必要とされるのが「分析」です。

 しかし最近の凶悪少年事件に従来型の動機を求めてもさっぱり分かりません。「殺したいから殺した」などという動機は、警察も困るでしょうが私たちも落ち着きません。マスコミの方も「ごく一般的な家庭で育った普通の子が近所の主婦を殺しました」などという正直な報道はとても出来ませんので、必然的に強引な理由づけに終始します。犯人の少年は朝食をとっただけで「平然と残さず食べた」などと報道され、受手側は「やっぱり変な奴だ(自分とは無縁の異常な人間だ)」と納得し落ち着きを取り戻します。メディア精神科医などはこのような報道の必需品となった観があり、「人格障害」「行為障害(子どもの場合)」などと毎度丁寧に「診断」し、その異常性にお墨付を与える役割を担っています。

 ちなみに「人格障害」というのは、例えば「躁うつ病」などの確立された疾病概念と同列に扱える病名ではありません。「精神病ではないが困ったことをする人たちを一応こう呼びましょう」という単なる精神科医たちの合意に過ぎません。当然治療法も定まっていません。そのような診断名を持ち出して事件を説明することは「困ったことをする人だから困ったことをした」という循環論法でしかなく、全く対策に結びつかない無意味なものといえます。

​ このように事件の主役に「異常」のレッテルを貼って、自分と無関係のものとすることで安心するというのは一種の防衛機制(自己を守る無意識の心の動き)です。しかしそれは同時に問題の本質を見失わせ、解決を不可能にしてしまうのです。

《真の安らぎに向けて》

  「犯罪は社会の鏡」という言葉があります。当事者たちは特殊どころか私たち以上に私たちを映し出している鏡といえるでしょう。彼らの行為は、同じ社会を生きる私たちの生きづらさと同じものをベースにしています。それをごまかしきれなくなっているのが彼らなのです。私たちはいったい何を抱えているのか。解決への第一歩はそれを直視することにあります。その上で行うまともな議論こそが、真の安らぎに向かう近道でありましょう。

父性と母性を考える(下)

2001年7月15日

 前回は父性の役割について、内と外を区切り、善悪を区切るという機能について述べました。このようにして形成された枠組みは人間関係を結ぶ重要な基盤となります。その枠組みを支配する規範の権威や信頼性は、暴力によってではなく「責任をとる」ことによって高まるのですが、現在の日本はそれが非常に揺らいでいる状況です。父性の揺らぎは母性にも大きな影響を与えます。

母性とは何か

 父性の「区切る」に対して、母性とは「包む」ことです。これは人間関係を紡ぐことです。父性とは違い抽象性はみじんもありません。とにかくその子とつながるのです。子どもという存在から湧いてくるさまざまな現象を受容することを通してその子の存在を受け入れ、確かなつながりをもっていくという作業は「子どもを産んだ」からできるようなことではありません。母親だろうと父親だろうと、母性を発揮できるのは、周囲に十分承認され、自分自身を尊重できる状態の大人です。ですから他者から大切にされていない状況にある人が母性的に振舞うのは困難なのです(自分の不安を子どもに投影して過保護になる場合は多いですが)。

母性を育むには

 母性が育まれる環境というのは、母性的な承認を周囲が親に与えている環境といえましょう。人は自分の存在が「理屈ぬきに」大切に扱われ尊重されるとき、自分の子どもに対してもそれが可能となるのです。自分自身に生じてくるさまざまな感情や思いを大事にできる環境にあってはじめて、子どもの存在を受け入れ、子どもが投げかけてくるさまざまなメッセージをゆったりと受け取ることができます。

 母親の母性を育む環境を考える場合、現代の母親世代の多くに共通する思いを無視することはできません。幼い頃から「これからは女性もキャリアや仕事が大切」といわれ、そしてまた上の世代からは「良い母」「良い妻」などを求められ、なんとか全てを満たそうと必死になっているのが彼女らです。このような女性に「仕事なんてやめて、良い母になることが大切」などと説教することは有害無益であり、彼女らを迷いと自己不全感に陥れるだけでしかありません。そのような説教はかえって彼女らの母性を危うくし、「叱りすぎ」や「過保護」を助長するだけにしかならないのです。

 父親の母性は子どもに対してだけでなく、子に関わる母に対しても発揮されるべきです。理屈ぬきにパートナーを大切に扱う父親の存在は母親の母性を高めるだけでなく、子どもの成長に伴って弊害も生じてくる母子密着に対しても有益に働きます。逆に、育児の主体(多くは母親ですが)を大切にしないようなパートナーと同居しているくらいなら、大切にしてくれる親兄弟や友人に囲まれて生活した方が母性も父性も健全に機能するといえます。育児に必要なのは「両親が揃っている」という形ではありません。母子家庭だろうが父子家庭だろうが、子どもと向き合う大人自身が健全な人間関係を保っていることこそが重要なのです。

​ 母性を十分に発揮できる育児は楽しいでしょう。しかしその前提となるのは、親を援助するシステムです。そして親を含めた私たちの社会全体のメンタルヘルスの問題なのです。

父性と母性を考える(上)

2001年7月14日

 父性や母性について、今ほど多くが語られたことはおそらくないでしょう。さまざまな少年事件、いじめ、不登校、ひきこもりなどの問題を論じられる時も「父性」「母性」という言葉はしばしば登場します。母原病だの父原病だのという言葉も盛んに使われました。しかし残念ながら、具体的にどのようにしたらよいかということについてはあまり満足すべき回答はなされていません。

​ 「父性の復権」を叫ぶ人々は、父親がもっと子どもを叱るべきだとか愛情をもって殴るべきだなどと主張します。多くの父親は「そういわれてもな…」と感じるでしょう。また「母性が大切」と叫ぶ場合は「子育ての重要性と意義を見直そう(母親はその重要さを理解して仕事を数年間やめよう)」「母乳で育てよう(この大切なスキンシップ無しではまともな子も母性も育たない)」などというような話しになりがちで、今一つ納得がいきません。女性が働いているとか、母乳で育てないことイコール「母性の喪失(悪い母親)」という恐ろしく短絡的な結論が多いことが、それらの主張に素直にうなずけない理由です。

父性とは何か

 父性とは「区切る」ことであり、母性とは「包む」ことと一般にはいわれます。父性は父親、母性は母親と決まっているわけではありません。男性にも女性にも父性と母性が同居します。

​ 父性の「区切る」という仕事は、内と外を区切り、善悪を区切り(いわゆる父性原理です)、母子密着を区切ります。子どもは生まれると「お前はうちの子だ」「お前は人類の一員だ」という父性と出会います。それは別に父親が叫ぶわけではありません。そのような枠組みを尊重する周囲の大人の態度こそが「父性」です。「人を殺してはいけない」といったこともこの枠組みに含まれてくるのです。人と人が人間関係を結んでいく基盤となる「枠組み」に周囲の大人が責任をとっているとき、父性は機能しているのです。大切なことは「責任をとっている」という点であって、親が子どもに「他人に迷惑をかけるな」といつも言葉にしていたとしてもそれ自体に大した意味はないのです。人間関係を結ぶ前提となる善悪というものに対して親自身が「バレなければいい」「事情で仕方がない」などという無責任な態度をとっていれば必然的に父性は機能を停止するのです。父性のカリスマはきちんと責任をとることから高まるのであって、暴力性が重要なのではありません。

父性欠如の蔓延

 薬害エイズの被害者と厚生省官僚の討論を以前テレビで見ましたが、その官僚は「厚生省という中にいるとね、仕方なかったんです」といったようなことを繰り返し言っていました。また最近では、大阪児童殺傷事件の犯人の父親が「普通の教育をした」「どちらかというと『日本主義』『大和民族主義』という形の教育だった」などといい、「いつかは何かやると思ってた」などと他人事のように言っていました。このような人たちは理屈や暴力の力を奮っていたかもしれませんが、父性は機能しているとはいえません。善悪に自らの責任をとらず、息子という「内なるもの」に対しても責任を全くとろうとしていないからです。

​ 残念ながらこの種の無責任は現在日本中に蔓延しています。規範は無力化し、人々は人間関係を形成する共通基盤をもてず、自分自身の存在を位置づけする確かな枠組みももてません。その中で若者がオウムのようなカルト宗教に走り、「人を殺す体験をしてみたかった」などといって殺人を犯します。それほどまでに信頼にたる「父」と出会えない状況であるといえましょう。

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